2019年3月1日金曜日

できないなら、やらなくていいと思う
そして、できないなりにやって、
同じレベルの人と過ごせばいいと思う

2018年12月15日土曜日

二種類のサービス業

「サービス業」には、二種類あると思う。
1つは「お客様は神様」型だ。
この人達は、自分に自信がある。
要するにサービス「してあげている」のだ。
であるから理不尽なことにも対応できる。
ある種理想的なサービス業の形だ。

もう一つは「媚び型」だ。
彼らはある種「寄付」を募る形で「癒し」を提供している。
キャバクラの彼女たちの中には、きっとそんな人が溢れているだろう。
彼女らは適切な労働環境と言えるのだろうか?
そこにはバイアスが必要に違いない。
それは「お客様は神様」型には必要のないものだが、「決まり」である。
・キャバ嬢に触れてはならない。
・彼らにできない事を強いない。
・できない事をいじめない。

もし、あなたが、お金を払っているからといって、何でも許されると思ったらそれは大まちがいである。
              ・・・・・・・・・・
何でも許してもらうためには、そのお金では足りないのだ。

チップは禁止なのだろうか?
「鬱」には、二種類あると思う。
ひとつは「世を儚む」もので、一つは「自己嫌悪」である。
ひとつ目は、「思っていたより世界はクズだった」というもの。
人を信じたら裏切られたり、表現が理解されなかったり、投げ掛けたものに返してもらえなかったり。
こういう鬱は、自分を変える必要はないと思う。
そこがあなたのいるべき場所ではないだけ。
あなたは今、没落しているだけ。
世界は広い。必ずどこかにあるはずだ、あなたを受け入れる場所が。

もうひとつの鬱は、「あの頃の教育は間違っていた」というもの。
ほったらかしにされたり、束縛されたり、命令されたり、教育を受けなかったりしたということ。
大人になって自分の受けていた教育は間違ってたと薄々気づくけれど、それを受け入れることができない。
だから八つ当たりのように人を傷つける。
この場合の鬱は、治療が必要だ。
長い時間を掛けた治療が必要である。
しかし元はと言えば、教育制度が整っていないのが悪いのだ。
相手を理解する教育。
人を信じる教育。
お金ではなく、義理を貸すという概念。
そして、しっかりした「学問」の教育。
全てをしっかりと行えば、苦しむ事はないのだ。

2018年9月5日水曜日

SNSで急増する「スランプ人」

SNSはよく「炎上」しますねぇ。
私達の親の世代では、こんなに多くの人とコミュニケーションを取ることなんてありませんでしたから、私達の親世代の人は意見が凝り固まっています。
しかし、私たちの世代でも、色んな意見を見れるからといってみんながみんな柔軟な人になれているかと言うと、違いますねぇ。
炎上が怖くて、本音と違う事ばかりつぶやいて疲れる人が急増しています。
そもそも人間の「優しさ」には二種類あり、怒られるのが怖くて行う優しさと、満たされた喜びを分け与えようとする優しさがあります。後者ならいいですが、前者の「優しさ」は非常に自分を傷つけます。そのために人は自分探しをするべきなのです。
SNS全盛期の昨今、自分探しをすることを最も求められている時代とも言えるでしょう。そして皆が好きなものを好きと言い、そのうえで人に優しくできる世界になるといいですね。

2018年8月22日水曜日

「人のために生きる」って、何?

人は人のために生きて、お金を稼いで、生活するらしい。
だけど、なぜ人は人のために生きるの?
確かに助けが必要な人はいる。赤ちゃんや障害者、お年寄りだ。
人を助けるなと言いたいわけじゃない。人を助けるのが好きな人もいるのだ。
その人たちは、自分の趣味で人を助けてる、もしくは、感謝されることで自己肯定感を得ている。しかし私にはそういった趣味はない。
人を助けて生きる社会は、本当に正しい社会なのかと、ふと疑問に思った。
全ての人がやりたいことをして、それで社会が回るわけがない…、
はたして本当にそうだろうかと思うことも、ある。
だって、誰もそんな事証明してないし。
だからわたしは、人のために生きることを、したくない。
人のためは必ず自分のためということわざなんかもあるけど、それは証明されたものではない。

2018年6月11日月曜日

ふたつの意味

「良い」というのは、ふたつの意味があることに最近気付きました。
ひとつは、「理想的である」という意味。
もう一つは「お得である」という意味です。
このふたつは、時として真逆です。
なのに同じように用いられます。
たとえば、「今度のヒロインは主人公のことが好きなんだよ」と言われて「おっ、いいね」と答えたら
それは「売れそうなシチュエーションだから」なのか、「成長のしがいがある」のかのどちらなのか分かりません。
「ポケモンのような作品を作りたい」なら、「ポケモンのように可愛いキャラクターをいっぱい出して売りたい」なのか「頭脳戦でアハ体験を得るようなゲームを作りたい」なのか分かりません。
この「良い」の価値観のズレは、人によって違い、それは死ぬまで変わらないと思います。

2018年6月9日土曜日

これからのインターネットのあり方

 私は常々、"考えてることが全部相手に伝わったら、争いなんてなくなるだろうな"って思ってる。
 例えば「関西人なんて嫌いだ」とだけ言ったら、関西人は怒る。
 けれども、たまたまその人が何人かの関西人にいじめられ、それによって偏った偏見ができてしまった場合、責められるのは「いじめられた人」ではなく、いじめたその関西人たちだ。
 だから我々は、「この人はかわいそうな人なんだ」と思うことができる。

 基本、争いのキッカケって、この「誤解」と「偏見」の連鎖、だと思う。
 一部の運のない人が、そうやって、争いを生むのだ。

 だから。
 もしインターネットで、人が全てを「つぶやく」ことができたなら。
 その人の「人となり」を、「全て」伝えることができるなら。
 それなら、インターネットリテラシーは、別の意味で、必要ないんじゃないかって思う。
 もちろん、そうできない場合、人は言葉を刃として使ってしまうけれども…。

 やはり、心に規制は、するべきではない。
 人は、許していくべきなんだ。

できないなら、やらなくていいと思う そして、できないなりにやって、 同じレベルの人と過ごせばいいと思う